「世界漫歩」

 この「世界漫歩」のページでは、塾長が実際に世界を旅して体験したお話を紹介しています。

 

 これからの日本の社会では、ますます国際化が進んでいくのは間違いありません。学校や職場の中に外国人の方がいることは、当たり前となり、日本の中にいても常に世界を意識しなければならなくなる世の中になってくると思います。

 

 そんな社会の中で生きていくことになる子どもたちに少しでも役に立つお話が紹介できたらなと思います。


NO.14 ブルゴーニュ・ワイン

 フランスには、世界的にも有名なボルドー・ワインとブルゴーニュ・ワインがあります。ブルゴーニュ公の首都であったディジョンを中心とするブルゴーニュ地方は、「コート・ドール(黄金の丘)」とも称されるワインの宝庫です。


 パリからディジョンへはTGV(フランスの新幹線)で1時間半程、さらにディジョンからローカル列車で20分程ワイン畑を見ながら行くと、ボーヌという町があります。
ボーヌでのワイン醸造の歴史は古く、ガリア・ローマ時代まで遡ります。町には、昔のブドウ圧搾機や樽、ワイン差しなど、ワインつくりに関するさまざまな道具が展示されたワイン博物館もあります。

 

 ボーヌは、さすがにワインの産地だけあり、町中にはたくさんのカーヴ(ワイン蔵)があります。その中心部に、マルシェ・オ・ヴァン(ワインの市場)というブルゴーニュの各村のワインを試飲できる場所があります。


 入口で約千円の入場料を払うと、タストヴァンというワイン試飲用の銀色の小皿を渡されます。これは昔ワイン蔵に働く人たちが、暗い蔵の中でろうそくの光を照らしてワインの試飲を行う時に、小さな光でも反射して色を見ることが出来るように工夫して作られたものです。現在では、実際にはグラスで試飲を行うのが普通で、タストヴァンはお土産物的な要素が高くなっています。


 さて、このタストヴァンとともにそこで試飲できるワインのリストを受け取ると、いよいよ開けられた重い戸を通って、地下へ続く階段を下りていきます。薄暗い地下には順路に沿ってたくさんの樽が並べられ、その樽の上には蝋燭がついていて、その横に試飲用のワインボトルが置かれています。ここでは、そのワインボトルから自分のタストヴァンに自由に注いで、好きなだけ試飲できるわけです。

 

 ワインを口に含んで味見した後は吐き出してもいいように足元は砂利になっています。もちろん飲み込んでしまってもいいのですが、ワインは何十種類もある上に、カーヴの入口近くには普及品のワイン、そして進んだ奥の方には少し高級なワインが用意されているので、最初のうちに飲みすぎてしまわないように気をつけた方がいいです。また、気に入った物があれば、ワインリストに書き込んでおき、出口で買うことができます。試飲に使ったタストヴァンはそのままお土産に持ち帰ることができます。

 

 ボーヌはその中心部となる旧市街は歩いても1時間ほどで回れてしまう小さな町ですが、1年に1回、毎年11月第3土曜日から3日間行われるブルゴーニュ最大のワイン祭りには、世界中からワイン好きの人が集まってきて、利き酒騎士団の入団式や晩餐会、オテル・デューでの世界一有名なワイン・オークションなどが開催されます。


 この祭りの期間中は、町中に屋台が立ち並び、大道芸、からくり人形、民俗衣装を着た人々によるパレードなど、様々なイベントが繰り広げられます。


 中でも、「オスピス・ド・ボーヌ」(養護ホーム)で行われるワインの競売には、世界中のワイン商がやってきます。ここでの収益金は慈善病院の維持にあてられています。チャリティを目的としたオークションでは、世界最大規模です。最近は日本の業者も落札するようになりました。知り合いの日本人の方が落札するのを目の前で見て、私までワクワクしたこともあります。

 

 今ではブルゴーニュ・ワインも日本へたくさん輸入されるようにはなりました。しかし、地元の人に聞くと、ワインには旅をさせるな、やっぱりここで飲むワインが一番だよと言います。ワインは生きていて、長旅で揺られてしまうと死んでしまい、あとはいくらそっと置いても元通りには戻らないと言うのです。


 ブルゴーニュはワインだけではなく、料理に関しても「フランスの食料庫」と言われるくらい、エスカルゴや牛肉などを使った名物料理がたくさんあります。その土地で取れた素材を使った地元料理を食べ、その土地で作られた地元ワインを一緒に飲むのがやはり一番というわけです。

NO.13 青の洞窟

 

日本には「日光を見ずして結構と言うな」という言葉がありますが、イタリアには、「ナポリを見てから死ね」という有名な言葉があります。 

 

 南イタリア最大の都市であるナポリは、石造りの家々が連なり、トマトやオレンジそしてレモンの畑が続く町です。「世界で最も美しい海岸線」と讃えられるナポリ湾には紺碧の海が広がっています。ナポリの名の由来は、かつてこの地を支配したギリシア人が、新しい都市という意味の「ネアポリス」と名付けたことに始まります。

 

 この町を歩いて感じるのは、人々の快活さです。本当に人生を楽しんで生きているということがよくわかります。

 

 そのナポリで最も楽しめるのは食べ物です。イタリアにパスタは1,000種類もあるそうですが、ナポリでパスタといえばスパゲッティで、そのスパゲッティはこのナポリからイタリア全土に広がって行ったそうです。ピザもまたナポリで生まれたのですが、ナポリではやや厚手の生地を使ったシンプルなピザが多く、特に有名なのはマルゲリータです。これはナポリのピザ職人が王妃マルゲリータに捧げたものだそうです。真っ赤なトマトと白いモッツァレッラ・チーズ、緑のバジルはイタリア国旗の色と一致していますね。

 

 さて、ナポリ湾の南に半島が突き出ていて、ここにソレントという町があります。列車で行くとナポリからは1時間位です。「帰れソレントへ」という曲を思い浮かべる人も多いかと思いますが、歌詞の内容は「出稼ぎに行った息子を貧しい漁村で母が待ちつづけている」というちょっと悲しいものです。

 

 現在のソレントとは、高級観光地となっています。丘の上に広がる町並みはナポリとはがらりと雰囲気が変わって、洗練された新鮮な美しさにつつまれています。かわいらしい店や、きれいなホテルやレストランが並んでいて、特に夕刻の景色が素晴らしいところです。

 

 さらにソレントからフェリーで30分ほど海を渡ったところに、カプリ島があります。古代ローマ時代からアウグゥストゥス帝など歴代の皇帝が別荘地としてきたことで有名です。紺碧のナポリ湾に浮かび、南国の緑に包まれた美しい小島です。狭い斜面にはオレンジとレモンとブドウの畑があり、白壁の家々がとても特徴的です。

 

 日本のテレビのコマーシャルにもなった有名な「青の洞窟」は、このカプリ島の西北に位置します。

 

 マリーナ・グランデという港から船に乗っていくと、海から空に向かって一直線にそびえ立っている断崖絶壁の島の姿がよく分かります。次々に現れる岩礁や岩島群、大小の洞窟などを眺めて20分程行くと、「青の洞窟」の入口に到着します。ここで、6人乗りくらいの小さな細長い手こぎボートに乗り換えることになります。

 

 ここで一番驚いたのは、洞窟の入口が本当に小さいことでした。もし海面下の水中を潜っていくのであれば、当然十分な深さがあり問題ないのでしょうが、海に浮かんだボートで洞窟へ入るとなると、海面の上のわずかな隙間を通り抜けなければなりません。しかも波が高くなった時には、その入口が完全にふさがれてしまいそうです。

 

 ここまで来れば、船頭さんの腕を信じるしかありません。波が低くなり、入口が大きく開いたタイミングを見計らい、船頭さんの「仰向けに寝て!」という指示で、ボートに乗った全員が船縁ギリギリくらいまで仰け反って体全体を隠したその瞬間、ボートは一気に洞窟の中へ滑り込んで行きました。 

 

 やっとの思いで入った洞窟の中は、不思議なブルーの光で満ちた神秘の世界でした。洞窟内には直接日光が差し込まず、海面下の開口部から水を通して光が入るため、このような幻想的で独特のブルーの色彩が生まれるのだそうです。洞窟の中はそれほど広いわけではありませんが、感動して水に飛び込んで泳ぎだす人もいました。エメラルド色の水と屈折した光が織りなす幻想的な青の世界、それが「青の洞窟」でした。 

NO.12  食事のスタイル

 最近は日本へも世界中から様々な種類の料理が入ってきていて、食生活はずいぶん変わりました。レストランを選ぶにしても、西洋料理から中国料理、エスニック料理など、非常に多くの種類があり迷ってしまうほどです。このように日本にいても世界の料理を味わうことができますが、やはり海外へ出かけた時にはその土地の料理を食べてみたいものです。海外旅行に行く目的はいろいろありますが、食べることは旅の大きな楽しみのひとつです。

 

今回は食事をテーマに取り上げてみたいと思います。

 

 西洋の食事では、スープやサラダなどの前菜、魚や肉料理などのメインディッシュ、そしてアイスクリームやケーキなどのデザートというような構成になっていて、それぞれの料理を食べ終わってから次の料理が運ばれる、いわゆるコースといわれる食事形式が一般的です。レストランだけではなく、家庭や学校の学生食堂でも同じです。

それに対し、伝統的に日本では主食のご飯と副食のおかずが一度に食卓に並びます。米を炊いたものを「ご飯」といいますが、食事そのものを指す言葉として、「ご飯」という言葉が使われます。例えば、米そのものを食べなくても「ひるごはん」といいますね。


 これは日本に限ったことではなく、米を食べる東南アジアの民族の間に共通で見られ、主食である米が食生活の中心で、いかに重要な食べ物とされてきたかということが分かります。

 

 その他、太平洋諸島や東アフリカの民族では、穀物やイモ類など炭水化物に富んだ食品を主食とし、他の副食物と区別しています。このような国々では普通、主食はお腹をふくらませるもの、副食は主食を食べるための食欲増進剤の役割を担っています。
日本の伝統的な庶民の食事では、ご飯と汁、副食(おかず)というスタイルが一般的でしたが、祭りやお祝いごとなどのごちそうの時でもない限り副食物は一品でした。副食には塩味などをつけて食欲を増し、ご飯を多く食べてお腹を満たすようにしていたわけですね。

 

 さて、今の日本ではパンを食べることも多いのですが、一度の食事でパンとご飯の両方を食べることは普通ありません。つまり、パンはご飯と置き換えられるもの、ご飯の代わりという感覚があります。

 

 西洋ではパンは確かによく食べられますが、主食というわけではありません。また、肉料理や野菜料理は、パンを食べるためのおかずでもありません。パンも肉料理も野菜料理も、食事のための1品でしかないものです。この点で西洋の食事は、はっきりと主食と副食で構成される日本や東南アジアの食事形式とは根本的に異なっています。

以前、知人のフランス人の家庭に夕食に招待された時のことですが、料理が完成してさてという時に、パンを切らしていたということに気づき、大騒ぎになったことがありました。パンがなくては、せっかくの料理が台無しだと言っていましたが、西洋においてパンは主食ではなくても、なくてはならない1品とはいえそうです。

いろいろな国の人が乗り合わせる国際線の機内食では、あらかじめ前菜のサラダからデザートのお菓子までプレートの上にすべてそろえられて出されますが、この機内食の食べ方も様々で興味深いものです。

 

 西洋人の場合は、まず前菜から食べ始め、それを食べ終えたらメインへ、それが終わればデザートへと1つ1つの料理を片付けながら順番に進んでいきます。でも、日本人はいろいろな料理を少しずつつまみながら全体的に食べていくスタイルの人が多いようです。


 小さい時から身についている食事習慣は、簡単には変えられるものではないので、同じにセットされたプレートの食べ方にも、人それぞれのスタイルの違いがよく表れてきますね。

NO.11  アンダルシア

 ヨーロッパ西南端にあるイベリア半島は、歴史上、カルタゴ、ローマ、ヴァンダル、西ゴートなど実に多くの民族が通り過ぎていった場所です。南部はアンダルシア地方と呼ばれていて、アルハンブラ宮殿のあるグラナダ、闘牛で有名なコルドバ、海辺のリゾート地であるマラガなど人気のある街がたくさんあります。今回は、そのアンダルシアの街の一つ、セビリアをご紹介いたします。


 セビリアは、本場のフラメンコが見られる街として有名です。フラメンコとはジプシーによってもたらされ、南スペインで開花した芸能です。ジプシーの起源はインドであろうといわれていて、アンダルシア地方に元からあった音楽とインドから持ち込まれた音楽が融合して生まれたのがフラメンコのようです。派手やかな踊りのように思われがちですが、もともとジプシーの歴史を背景として、その生活の中にあるはかない愛や苦しみが歌われている悲しいものでもあるのです。


 バル(居酒屋)やレストランで、フラメンコのための板張り舞台のあるところをタブラオといいます。私はセビリア着いてすぐに、街の中心の広場の近くに「タブラオ」を見つけました。夜9時からショーのチケットを購入すると、時間まで街をぶらりと歩いてみることにしました。


 最初に足を運んだのは、ムデハル様式というアラブの技術が施されている「アルカサル」でした。グラナダの「アルハンブラ宮殿」が「赤い城」といわれるのに対して、この「アルカサル」は「白い城」といわれています。美しいタイル・モザイクが独特です。


 スペインという国の特徴は、カトリックの文化の中にイスラム文化の影響が色濃く存在していることだと思います。アンダルシア地方には、コルドバのメスキータ、グラナダのアルハンブラ宮殿など、イスラム文化のレベルの高さを伝える建築物が今でもたくさん残っています。


 アルカサルの裏手にある細く入り組んだ路地が交差する旧ユダヤ人街へ行ってみました。家々の戸口にはタイル、窓辺には花、そしてパティオという噴水付き中庭があるのですが、これは、猛暑から逃れるために、中庭に緑を置いて、天然の冷蔵庫を囲む形で建物を造るという知恵からきています。セルビアの街を歩いていると、オレンジ木を植えた並木道や公園が多いことに気づきます。当然、道端にはたくさんのオレンジが転がっています。


 さて、夜になり、いよいよタブラオへ向かいました。いざ中に入ってみると意外と狭く、幅5m、奥行き5mくらいのステージです。オープニングは、ギター弾き3人が美しいメロディーを奏でて盛り上げます。その後、ギター2人、歌い手2人、ダンサー1人という組合せで15分位ずつステージが進んでいきました。


 私はフラメンコを習っている友達に練習を何度か見せてもらったこともあったのですが、その日そこで見たのは全くの別世界でした。生で聞かせるギターと歌は、何ともいえない情緒をかもし出します。マイクも使っていないのに、信じられないくらいの大きな音が心に直接響いてきます。ギターに合わせ、ダンサーに掛け声をかけながら歌う歌い手たちの声には深い哀愁が漂い、ジプシーたちのやり場のない愛と悲しみが伝わってきます。3人目の女性ダンサーは踊りとともに歌も披露したのですが、その声が何ともいえない物悲しさに満ちたもので、すっかり魅せられてしまいました。


 そして最後のステージでは、2本のギター、6人のダンサー、3人の歌い手が狭い舞台の上であらん限りの力を歌と踊りにぶつけてきました。ある時は陽気な、ある時は物悲しげなリズムの歌に合わせ繰り広げられるダンス。カスタネットと扇子。激しく踏み鳴らされる足先。そのすべてが一体となり、激しく迫ってきて、彼らは全員汗だくでした。こうして約2時間のステージは、拍手大喝采の中で幕を閉じました。最高に感動した夜でした。


 セビリアはビゼーの「カルメン」の舞台となった街でもあります。アントニオ・ガディス舞踊団の公演を観たこともありますが、その時に感じた貧しい農村、陽気な人々、激しく悲しい恋といった背景には、このアンダルシアがありました。セビリアでは、「カルメン」以外にも「セビリアの理髪師」や「ドンファン」など、人々を感動させ、親しまれ、愛されている世界的名作がたくさん生まれています。音楽も盛んで、オペラやコンサート、演劇などの公演も充実しているところです。